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虎に喰われるか、男に喰われるか

皆さんこんばんは!今回は、からゆきさんについて書いていこうと思います。5年ほど前に他のコンテンツで少し書かせてもらいましたが、またこちらでも紹介しますね。私は在シンガポール日本人として、より深く彼女たちの存在を知っておいたほうが良いと思い、今回再度記事にしてみました。

からゆきさん

私たちが学ぶ歴史でチラっと出てきた彼女たちの存在でしたが、あまり詳しく教わりませんでした。というのも、特に第一次世界大戦以降、からゆきさんは日本の歴史の恥部として捉えられてきたからかもしれません。19世紀半ば、開国したばかりの日本は西洋列強に押され1858年に日米修好後悔条約を締結します。これによって日本は世界経済の一角に完全に組み入れられた以上、輸入量に見合うだけの輸出をする必要がありましたが、いまだ有力な輸出産品のない状況では金や銀を代貨にするほかなく、それには限りがありました。

西洋列強から借款を受ける手はありましたが、利息の支払いが滞れば担保とした関税などを差し押さえられ、半植民地化されてしまいます。それを回避するには手っ取り早く外貨を獲得するしかなく、そこで利用されたのが主に九州出身の若い女性たちだったのです。特に貧困に喘ぐ家は、女性は出稼ぎとして海外に出されました。

南洋へ

1870年代以降、彼女たちは海洋貿易で人の行き来の多かったシンガポール、マレー半島、ボルネオ島、中国本土などに派遣されました。中にはメイドの仕事と騙されて渡航したケースもあったようです。売春の相手とした客は、欧米人の船乗りや植民地に滞在した人々、そして裕福な華僑でした。現在のミドルロード(MRTブギス駅付近)に日本人娼館が軒を連ねており、当時ラッフルズホテルに滞在していたイギリス人作家、サマセット・モームが日本人娼婦について記述した文献も残っているんだとか。20世紀に入り、日本で紡績業が軌道に乗るまでは彼女たちが稼いだ外貨が頼りだったと言われています。

彼女たちの多くが再び日本の土地に足を踏み入れることはなかったと言われています。不衛生な環境、ありとあらゆる性病、熱帯の気候特有の熱病など、多くがその土地で命を落としました。シンガポール中部に位置するセラングーンに日本人墓地があります。その一角にからゆきさんのものと思われるお墓が残っています。

日本の恥

そして決定打となったのが第一次世界大戦。戦争が始まると東南アジアに向けた欧州からの輸入が止まり、日本製品がそれに取って代わりました。これが引き金となり、シンガポールの日本人経済の中心は小売業、貿易業へと変化していったのです。そして政府はマレー半島から売春を排除する計画を立て、1921年にに日本人の売春を不許可としました。それから彼女たちの存在は「日本の恥」として、あまり公に語られなかったと言われています。

まとめ

彼女たちの一部は劣悪な環境から逃げるべく、マレー半島へ脱走したそうです。その際、待ち受けていたのは虎やワニがいるジャングル。そこで「虎に喰われるか」もしくはシンガポールに戻り、「男に喰われるか」。運命は想像以上に過酷でした。からゆきさんがいたからこそ、日本は世界に誇れる国の一つになったのかもしれませんね。今度ミドルロードを歩くときは、歴史の1ページに刻まれた彼女たちの存在に思いを馳せてみようかと思います。

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