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マレー人の漁村だった!?シンガポール歴史散歩・タナメラ編

シンガポール東部タナメラ

シンガポール東部にあるタナメラ地区。私の職場がチャンギ空港なので、「空港から近くて比較的静かな場所」を探したところ、現在住んでいる場所に行きつきました。チャンギ空港駅から東西線で2駅!とても近いです。

シンガポールの住宅地というと、高層階のマンションが立ち並ぶ場所がメジャーですが、ここはテラスハウスやセミデタッチハウスが立ち並ぶ昔ながらの閑静な住宅地です。他のベッドタウンと比べて人口密度が低く、とても静かで気に入っています。

べドック・フードセンター

近所に昔からあるホーカーセンター (*1) があります。店舗が比較的マレー料理やハラル料理が多いので、ずっと不思議でした。近くに昔からある伝統的なモスクもあるし、シンガポールにしては他の住宅地よりムスリム色が濃い場所です

(*1) 上下水道がある屋台センター

マレー人

マレー人とは、シンガポールの人口の中で15%くらいを占める民族です。マレー語を話し、インドネシア語話者と意思疎通できるくらい言語が似ているんだとか。彼らは主にイスラム教徒で、隣国マレーシアの主要な民族です。シンガポールは元々マレーシアの一部だったので、彼らも昔から住んでいました。人口の75%を占める中華系の人たちは中国大陸、10%を占めるインド系はインド南部などから移民で来た人たちです。

元はマレー人の漁村だった

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カンポン・ラウト

そして調べたところ、私が住んでいる場所は、元々マレー人が住んでいた漁村でした。村人たちは、漁に出て得た新鮮な魚を道端で売って生計を立てていたそうです。村の名前は「カンポン・ラウト (Kampong Laut)」。直訳すると「ラウト村」です。昔の地図を見つけました。

残念ながら、この村は再開発により1990年代に取り壊されてしまいました。元々、シンガポール郊外には「カンポン」という村が点在しており、都市部以外の人々が生活していました。しかし建物の老朽化や近代化を目指す政府により、村ごと再開発されることが増えていくことに。

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現在残っているのは「ブアンコック村(英語サイト)」、そしてもう一つはウビン島にあります。私の元夫も、シンガポール工科デザイン大学の地にあった中華系のカンポンで幼少期を過ごしたそうですが、80年代に再開発で村ごとなくなってしまいました。その当時は、民族別に固まって住んで良かったようです。今でもマレーシアに行けば、民族別で居住地域が違っていたりするので、とても興味深いです。

べドック・レストハウス

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現在、テラスハウスなど一軒家が立ち並ぶ旧カンポン・ラウトですが、以前イギリス人将校などのビーチハウスとして使用されていた建物がありました。その名も「べドック・レストハウス」。ここも悲しいかな、90年代の再開発で取り壊されてしまいました。

元々19世紀からシンガポールはイギリスの植民地であり、第二次大戦で旧日本軍に3年間占領され、戦後再度イギリスの統治下に。そしてイギリスからマレー連邦が独立。紆余曲折を経て、1965年にマレーシアから独立しました。

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その当時、このエリアはまだ埋め立てをしていなかったので、べドック・レストハウスがあったアッパー・イーストコーストロードが砂浜と隣接していたそうです。昔の写真を見ると、道のすぐ右側にビーチが見えます。今はそこにゴルフ場やECP(高速道路)があり、シンガポールは埋め立てで土地を増やしていったんだな、と実感。

ハジ・カハールの邸宅

そのべドック・レストハウスがあった場所からほど近く、北側に少し歩くと大きな邸宅があります。1920年代に建てられたもので、シンガポール激動の時代を見守ってきた建物。ネオ・ロココ朝とカンポンの折衷スタイルと呼ばれています。シンガポール東部、べドック地区を代表するビジネスマン、「ハジ・カハール」が建てた邸宅です。

ハジ・カハール

インドネシアはスマトラ島南部にあるパレンバンから、20歳のときにシンガポールにやってきたハジ・カハール。徐々にビジネスの才覚をを発揮し、シンガポール・パレンバン間の貿易業で成功。彼の邸宅周辺にあるゴム園やナツメグ園をも管理するように。晩年はイスラム教の学問に専念するようになり、近くにあるモスクで教鞭をとっていました。現在もそのモスクは健在です。

シンガポールでは偉人や成功した人々に対して、彼らの名を道に名付ける傾向がありますが、ハジ・カハールはそれを拒否しました。その代わり、彼より年長のハジ・スルタンにしたようです。現在も邸宅前の通りは「ハジ・スルタン通り」で、その名残を感じられます。

第二次世界大戦

ハジ・カハールは1940年にその生涯を閉じました。しばらく邸宅に彼の家族が住んでいましたが、第二次世界大戦で旧日本軍がシンガポールを占領。その際、邸宅は2万2千シンガポールドルで旧日本軍に強制的に売却させられます。しかし旧日本軍が1945年に去ったあと、家を売った現金は紙屑と化してしまいました。

現在のオーナー

戦後、この邸宅はシンガポール建国の父、リー・クワンユーの大叔母とその夫が所有していました。現在は彼らの子孫が所有しているそうです。ちなみに大叔母はシンガポール初の女医さんだったそう。専門は産婦人科で、毎日ビーチ・ロード沿いにある病院に通っていました。もしかしてラッフルズ・ホスピタルの前身?

まとめ

現在、べドック・レストハウスがあった場所は新たな地下鉄駅の工事で大忙しです。2021年現在、古い建物はハジ・カハールの邸宅と彼が教鞭をとったモスクしか残っていませんが、ランニングで通りかかるたび立ち止まって見入ってしまいます。それくらい迫力があり、かつエレガントで人々を惹きつけるものがあるのかと。シンガポール郊外の住宅地で歴史情緒を感じられる場所があるとはなんとも感慨深いです

地下鉄の工事に平行して、少し西側では公団住宅の建設が進んでいます。タナメラはまた新たな時代に突入するのかな。少し寂しいような気がしますが、たまには昔を想像して邸宅前を歩きながら歴史情緒に浸りたいですね。

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